映画に生き 映画に活かされて 立ち読み
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))才気煥発で17歳で江戸の親類に奉公へ出たが、楠木正成の子孫の楠木正虎の子という軍学者楠木正辰の弟子になるとその才能を発揮し、やがてその娘と結婚し婿養子となった。楠木正雪あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「由井民部之助橘正雪」と名のり、やがて神田連雀町に楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。慶安4年(1651年)に、「由井正雪の乱」ともいわれる「慶安の変」を起こし駿府にて自害。享年47歳。世古六太夫(せころくだゆう由井正雪(ゆいしょうせつ=現在の静岡県静岡市清水区由比の紺屋の子として生まれる。幼い頃より=三島を危機から救った最後の本陣主。 天保9年(1838)、伊豆国君澤郡川原ヶ谷の旧家、栗原家に生まれた。14歳の時、世古家の養子に迎えられ、本陣主として問屋役として、精力的に仕事をこなしていた。 明治元年、官軍と旧幕府勢力が三島宿をはさんで対決した際、六太夫は三島明神の神官らと両者の調停をはかり、一触即発の危機から三島を救った。 明治時代には、実業家として、三島の教育を発展させる立役者として活躍。 明治5年に設立した私立学校に続いて、12年には三島の小学校の前進となる新校舎設立に際し、物心両面に及ぶ尽力を惜しまなかったという。 また、自らは通信運輸事業を展開して、三島の郵便局の礎を築いた。藤原秀郷(俵藤太)010

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